思春期と倦怠期

書きたいことを書くだけ!

駄菓子の宝箱

僕には宝物がある。
それはとても甘くて、ときにしょっぱい。
最高においしい駄菓子のことだ。

 

お気に入りの赤い宝箱の中には、300円という限られた予算内で買ってきた駄菓子の数々が詰め込まれている。
チョコ、チップス、飴、スナック、いろんな種類の宝物たち。

 

優しい僕は、時々宝物を他人にも分け与える。

 

友達にあげると喜ばれるし、ママにあげると最初は遠慮するけれど、最後にはおいしいと笑って食べてくれる。
僕はお菓子も大好きだけれど、他人の笑顔も大好きなんだ。

 

たまに、宝箱の中身が空っぽになって、次の補充日までさみしく過ごすこともあるけれど、そんなときには、次に買う駄菓子のことを考える。
駄菓子屋に足を運び、お金の計算を頑張って、たくさんの組み合わせをけんしょうする。

 

いろいろな可能性を考えていると、寂しい気持ちはいつの間にか忘れてわくわくした気持ちに切り替わるのだ。

 

自分が好きな駄菓子、友達が好きな駄菓子、ママが好きな駄菓子。
次は、どんな宝物にしようかな。

消費欲消費

幸福なんて、薬物一つで簡単に手に入るじゃないか。
それなのに、幸せになるため♥とかいって、今を我慢するだなんて馬鹿げているとは思わないか?

 

だから俺は、貯金をしない。努力もしない。
目の前の欲しいものを買い、好きなことに時間を使う。
消費こそが俺の生きがいだ。

 

だが、しかし……。
どうしよう!!!


もう金がない!

 

金がなくては消費ができない!!

\貯金しとくんだった!/

 

借金も考えたんだが、どうにも他人の金だと消費した時の幸福感が半減するんだよな。
自分の腕をリスカするのが楽しいのに、他人でやるのはちょっと違うだろみたいな。別に血とかグロさ求めてるわけじゃないだろ的な。そんな感じだ。
他人の金では消費ではなくて、代行という感じなんだ。わかるか!?
というわけで、借金さえできないでいる俺は大変困っている。困っているのだが、しかし、けれども、我慢だけは絶対にしない!!
俺はニートになっても、40歳独身実家暮らしになったとしても消費をし続けると誓ったのだ。
だから、この自分の矜持と向き合い、何をどう消費すれば、我慢することなく気持ちいい気分になれるのかを考えた。

 

で、考えに考えた結果。

 

モノを売った。

 

特に洋服は有り余っていたから助かった。大した金にはならなかったけど、15着売って1着の服を買えるなら満足だ。
俺にとって服は買った時点で消費を終える。
着るという行為には別になんか興奮しないのだ。だから、今までも普通に女ものの服も下着もいいね!と思ったものをとにかく買っていたし、売ることに対しても全く抵抗感がなかった。
これは他人にはあまり理解されないのだけど、推しに投げ銭するのとおんなじ感覚だといえば少しはわかってもらえるだろうか。感情が動いたら金が動くんだ。
あー!!!可愛いパンティだーーー!!!お金投ーげちゃお!すぱちゃ★みたいな。

 

とまあ少し話が逸れたが、服を売ることに味を占めた俺は、他にもどんどん売ったった。
例えば漫画。アニメが好きだったから買ったけど、漫画コンプしたぜ、という充実感を得ただけで別に読んではいない。時間もったいないし。
次に、カップラーメン。これはオークションで売った。売り切れ続出!生産中止!みたいなネット記事に踊らされて近くのスーパーから全部買い占めてやろうとした結果余ったものだ。まあ、騙されていたわけだけど、勝った時に満足したからよし。

 

その他もろもろ、げろげろばあを売りに売り、

手元には大量、とまではいかないながらもそこそこの金が残った。
これで、また消費できる。我慢なんて一つもしていない。
やったね!幸せなんてこんなに簡単に買えるのだ。

 

ジリ貧、などという意見も当然出てくるだろうが、そういうやつにはこう言ってやるんだ。

 

\うるせえ、ブス!/

 

俺は我慢しないから人間関係にも容赦しないのだ。
煩わしいものは全部、遠ざけて、ひきこも…、は言葉が悪い。

 

一人勝ち、してやるのさ。

新幹線の中で

今から俺は何に会いに行くのだろう。

 


渡された葬儀のスケジュールにあった『火葬』の項目を見て、そんなことを考えてしまった。

あたりまえだけど、もう祖母は亡くなっている。そのことを改めて実感した。

 


なら、今から会うのは何なのか。

 


祖母だったもの。

 


という言葉が頭をよぎる。

魂が離れ、肉塊とかした抜け殻、つまりは、祖母であったものとこれからあいまみえるのだと。

 


きっとこんなことを周りの人に言ったら怒られるんだろうな。

祖母をモノ扱いするんじゃない、と。

 


でも、モノ扱いしないのであれば、どう火葬という現実に向き合えばいいのだろうか。

俺は祖母を焼きたくない。

 


だから、俺が今から会いに行くのは、祖母だったもの、その抜け殻、そういうことにする。

 


もちろん、割り切れない人がいるのも重々承知している。顔を見て、今にも笑い出しそうに感じることだってあるだろう。抜け殻の向こう側に魂が見えるのは長く連れ添ってきた人なら当然のことだ。

 


だから、自分が考えていることは決して表に出すつもりはない。

けど、ここでこうして書くことだけは許して欲しい。これもまた自衛のためだから。

こうこうこういう理由でこう考えたって過程を説明することで、本当の意味で自分を納得させて、できることなら誰かから許しを得たい。

 


情けない話だが、ただただ話すことで身軽になりたいのだ。

わかって欲しいとは思わないけど、どこかにはいさせて欲しい。過去にこんな罪深いことを考えたと自分を嫌いにならないために、今のうちから言い訳をさせて欲しい。

ただ、疲れた、と言わせて欲しい。

本当に、情けない話なのだけど。

女の子になれなかった日

実は俺、男が好きなんだ…!

 

 

というのは冗談で、普通に女の人が好き。

それもめっちゃ好き。もう大好き。

キャッキャうふふしている人たちを見ると「僕も混ぜて〜」って気持ちになる。

 

どうだ?なかなかの変態だと思ったかい?

 

あながち間違いではない。

ないのだが、1つ誤解を解いておきたい。

 

僕は女性のことは好きだけど、正確には男嫌いと言った方が正しい。

 

男嫌いと言っても男全般が嫌いなわけじゃない。

ただ、学校に通っていた時は8割くらいの男は苦手だった。

テレビのバラエティ番組を真似たようなノリ、面白いことを言えというような圧力、下品な下ネタ。

そういうのが嫌いだから、自然と男が嫌いになった。

 

だからか知らないけど、体育の授業とかで人前で着替えるのは恥ずかしかったし、

修学旅行で同じお風呂に入るのもすこぶる嫌で仕方がなかった。

 

大半の男が嫌いなわけだから、自然と女性を好きになる。

そういうわけで僕は女性が好きなのだ。

性的な意味もちろんあるのだろうけれど、それ以上に友達になりたい。と思ってる。

 

でも、さっき君たちが誤解したように、ここまで説明しなくちゃ、

あるいは説明したとしても僕は変態さん扱いされるわけだ。

 

キャッキャうふふしてるなかに「僕も混ぜて〜」なんて言ったらどうなるよ?

「は?キモ。どっかいって。男とかまじないわ」である。結構傷つく。

 

そういうわけで、僕の願いとは裏腹に女性の友達を作るのは難しい。かと言って、男性はこちらからお断りな場合が多い。

 

性別で人を決めたくはないけど、ほとんどはこんな感じの我が人間関係。

だから僕は友達が少ない

 

いっそのこと、「実は俺、男が好きで〜」なんてことになれば人生はもっと変わったのかもしれないけれど、

あいにく僕は本物の女の子にはなれなかった。

 

ちょっと試してみようとしたけど、

やっぱり無理。

 

僕はただの、女好きな変態男にしかなれないのだ。

同じ、男好きの変態女さんか、変態が好きな方、どうかお友達になりましょう。

 

安心してください。変態はここにもいますよ。

女の子になれなかった日

実は俺、男が好きなんだ…!

 

 

というのは冗談で、普通に女の人が好き。

それもめっちゃ好き。もう大好き。

キャッキャうふふしている人たちを見ると「僕も混ぜて〜」って気持ちになる。

 

どうだ?なかなかの変態だと思ったかい?

 

あながち間違いではない。

ないのだが、1つ誤解を解いておきたい。

 

僕は女性のことは好きだけど、正確には男嫌いと言った方が正しい。

 

男嫌いと言っても男全般が嫌いなわけじゃない。

ただ、学校に通っていた時は8割くらいの男は苦手だった。

テレビのバラエティ番組を真似たようなノリ、面白いことを言えというような圧力、下品な下ネタ。

そういうのが嫌いだから、自然と男が嫌いになった。

 

だからか知らないけど、体育の授業とかで人前で着替えるのは恥ずかしかったし、

修学旅行で同じお風呂に入るのもすこぶる嫌で仕方がなかった。

 

大半の男が嫌いなわけだから、自然と女性を好きになる。だから、僕は女性が好きなのだ。

性的な意味もちろんあるのだろうけれど、それ以上に友達になりたい。と思ってる。

 

でも、さっき君たちが誤解したように、ここまで説明しなくちゃ、

あるいは説明したとしても僕は変態さん扱いされるわけだ。

 

キャッキャうふふしてるなかに「僕も混ぜて〜」なんて言ったらどうなるよ?

「は?キモ。どっかいって。男とかまじないわ」である。結構傷つく。

 

僕の願いとは裏腹に女性の友達を作るのは難しい。かと言って、男性はこちらからお断りな場合が多い。

 

性別で人を決めたくはないけど、ほとんどはこんな感じの我が人間関係。

だから僕は友達が少ない

 

いっそのこと、「実は俺、男が好きで〜」なんてことになれば人生はもっと変わったのかもしれないけれど、

あいにく僕は本物の女の子にはなれなかった。

 

ちょっと試してみようとしたけど、

やっぱり無理。

 

僕はただの、女好きな変態男にしかなれないのだ。

同じ、男好きの変態女さんか、変態が好きな方、どうかお友達になりましょう。

 

安心してください。変態はここにもいますよ。

あけおめと言いたくない

あけおめことよろ!キャピッ⭐️(真顔)

 


全く、どこのどいつだあけおめなんで文化を作ったやつは。

毎年、手間のかかる年賀状文化が廃れてきたのはいいが、LINEやSNSで新年の挨拶をするのが定番となっているのはどうも解せん。

 


いや、いいんだ。わかる。

この挨拶をきっかけに会話したいなと思っていた人と話す言い訳ができるのは素敵なことさ。

好きな人にあけおめって送って、なんなら新年の約束なんかしちゃってね。すばらしい文化じゃあないか。

 


だが!

 


なんだろう、あけおめことよろ!ということに抵抗がある自分がいるんだよ。

 


だって、同調圧力に屈したみたいではないか!!!

 


別に俺のあけおめことよろを待ってる人なんて誰もいないのわかるんだが、何も言わないというのもそれはそれで、コミュニティの一員じゃない感じがするわけで...。

求められてないあけおめことよろを圧力に屈して言うこの感じは屈辱以外の何者でない。そう感じるんだよ。

 


例えるならば、イケメンくんの付き添いでカラオケにきてローテーションだから歌を歌うけど、本当は音痴だから歌いたくないし、みんなも興味なさそうだし誰も得しないようなそんな屈辱感。

 


おーれはーじゃいあーん!

あけま〜しておめ〜でと〜♪

 


そういうわけで、皆があけおめと言い出す前、新年が始まる2020年にあけおめことよろの儀式を済ませた私なのでありました。

 


結局、圧力に屈したわけだが、圧力が生まれる前に先手を打ったので、実質屈してないと言うか屈する前に屈したと言うか、初めから負けておけば、負けることはないと言うか、実質俺の勝ち。

子供部屋からクリスマスを眺める。

なんてことができるわけがない。俺が今見ているのはパソコンの画面だ。

不満、愚痴、嫉妬、醜い言葉。その数々を眺め、クリスマスに劣等感を抱くものたちと傷を舐め合っている最中なのだ。

 

俺は子供の頃からクリスマスが大嫌いだった。

いい子にしていないとサンタさんはこないというが、1年間いい子にしていてやっと来てくれたサンタさんは毎年何をもってきてくれたと思う?

勉強の参考書だ。ふざけんな。それに比べて、クラスの悪ガキどもは、ゲーム機なんて高価のものをもらっているものだから、納得がいかない。

僕をいじめていたあいつはいい子だったと言えるのでしょうか?ねえ、サンタさん、いい子ってなんですか?基準は?主観だけ評価しないでくださいよ。ねえサンタさん。

 

後日、サンタさんは自分が願ったものをくれるんだという話をそいつから聞いた時にはどれだけ驚いたことか。

うちの場合はその子にとって一番必要なものをサンタさんが選んでプレゼントしてくれると聞いていたからこっちに決定権なんてなかったぞ。

異文化、異文化。ああ、嫉妬する!

ついでに愚痴ると、お年玉の金額でも不平等を感じたものだ。世の中、不公平だ!全くそうだ!

 

そんなわけで今年もやってきたクリスマス。

とっくにサンタさんは死んで、なおも子供部屋にすまうワタクシでございます。

抱えているものは`so!さっきも言ったがレットゥーカンだ。

 

昨日のクリスマスイブ。聖なる夜のムカムカを抑えるために少し早めの大掃除をしたところ、子供の頃の写真が複数出てきた。

両親は写真をとるのが好きで、ことあるごとにカメラを俺に向けていたのだが、それがまあ、幸せそうな顔をしてやがるわけだよ。

こんな未来(←)とも知らずに、呑気なものでさ。

 

そして思い知るわけだ、

 

           俺は一生、昔の自分に勝てないんだなって。

 

 

近所の人を集めて、行ったクリスマスパーティも、お誕生日会も、友達を呼んでやったスマブラ大会も、もう戻ってこないんだ。

そう思ったら虚しくなって、写真を眺めるのをやめて全部ゴミ袋にぶっ込んだ。

 

せいせいした。気持ちよかった。

ローランド様だって、ものをほとんどおかないというじゃないか。俺ってローランドみたいでかっこいいじゃんって思った。

 

でも、一日経って、玄関の前にあるゴミ袋を見てまた思うわけだな。

本当にこんなんでいいんだろうかって。

 

確かにいっときはスッキリした気持ちになれたわけど、

改めて考えると自分という存在があまりにもみっともなさすぎる。

学校からも仕事からも社会からも親からも逃げ続け、さらには思い出からも逃げているくせに、

立派に生にはしがみついてやがるというこの図太さ。

 

自分にとってこの写真たちを捨てるというのはどこか一線を超える何かのような気がした。

過去を捨てて前を見るみたいな、失恋を乗り越えて新しい恋へ、みたいなのならいいんだけどさ。

後ろ向きな思い出の削除というのは、こうも惨めなモノなのかねえ。シミ、地味。

 

とはいえ、俺はこんな面倒くさいことは考えない。

だって今日はクリスマス。気分を高めたっていいじゃないか。ほんの少し望んでみたっていいじゃないか。

きっかけに飢えているワタクシこと、子供部屋おじさんは、過去の自分には一生勝てないと思い知りながらも、今日の幸せを求めて、コカコーラを買いにコンビニへ行くのであった。

 

ーふぃんー